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ほとんどの人が、学校を卒業してしまえば、その後学校唱歌を歌うことはない。唱歌には、校門の外の自由な空気には馴染まない一種独特の“殺菌された食物のような匂い”がある。
「唱歌」は、元来「ショウガ」と発音され、楽器の旋律を口で唱えながら記憶するための雅楽の学習法であった。例えば、能管は「ヲヒャライホウホウヒ」、篠笛は「ヒャイトロトヒャヒャ」などと言って旋律を学習していた。その「唱歌」が、明治になると「ショウカ」と発音され、日本特有の音楽用語となった。文部省がつくった「学校唱歌」は、芸術歌曲でもなく伝統音楽でも民謡でもない、「簡単な現象のようにうけとられながら、その実、日本のこの半世紀の音楽の進歩と、それをはばむ阻害の要素を同時に体現している矛盾にみちた存在」(『岩波小辞典』山根銀二編)として長い間、日本音楽教育の一角を担ってきたのである。
この八月十三日、「日の丸」を国旗、「君が代」を国歌と定めた国旗・国歌法が施行された。「君が代」が卒業式・入学式などの「儀式唱歌」として、「矛盾にみちた存在」である「学校唱歌」の中に組み入れられることになった。国歌は国民に愛されて歌われてこそ価値がある。「君が代」がより親しみのある、明るく唱和できる歌になって、これから校門を出て、日本列島で歌われるようになるのだろうか。
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先日、私は久々に「君が代」を歌う機会に恵まれた。東京調布ロータリークラブ例会の講師に招かれたのである。「ロータリークラブ」では、昭和三十八年以来、月始めの恒例儀式として「君が代」を斉唱している。「自国国歌斉唱」はシカゴ本部の規約でもあると言う。
その晩、高校の同窓会に顔を出したとき友人たちにその話をして、「君が代」を最後に歌ったのはいつかを尋ねてみた。すると、相撲観戦好きの友人以外、ほとんど終戦以来歌ったことがないと言う。そして、恐らく今後も「君が代」を歌うことはないだろうと言うのである。国旗・国歌法案の話には非常に関心を寄せていたのに、実際に自分が歌うことに対しては意外にも醒めた反応であった。
「君が代は国歌である」という定義が付されたことで、教育現場では「君が代」の指導がしやすくなったのではないだろうか。しかし、「君が代」を歌う機会は、相変わらずの一年二回、卒業式と入学式でしかない。校門の内外を問わず、「君が代」に親しみを持つには、まず「君が代」についての正しい音楽的な知識が必要である。
明治の初め、「君が代」は三つの異なる旋律を持っていた。現在、我々が歌っているのは、二番目につくられた「君が代」である。「三つの君が代」の中で「第二の君が代」だけが、なぜ百年以上にわたって日本人に歌い継がれてきたのか。二年前、いささかの答えを得ようと『三つの君が代』(一九九七年・中央公論新社:現在中公文庫)を上梓した。本の中に掲載できなかった、明治時代に制作された「君が代譜」や「伴奏譜」は、その後音源化してホームページに展示した(http://alpha-plus-music.com/)。
音楽を職業とする者として、「君が代」に対するさまざまな意見と法制化に至る過程を眺めながら、いろいろ感ずることが多かった。以下、思いつくまま「君が代」について所感を述べてみたい。
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「三つの君が代」が制作された背景には、日本の音楽文化の深層にある二つの源流が深く関係している。
第一の源流は、七◯一年に設立された日本初の国立音楽舞踊学校「雅楽寮」(ウタマイノツカサ)に始まった。「雅楽寮」は、学生・教授・職員数四百名を越える堂々たる学校で、外来音楽、特に唐楽を勉学の中心とした教育が行われていた。十世紀になり国風文化の時代を迎えると、次第に日本独自の音楽として体系化されてくる。さらに、仏教音楽である声明を母体とした曲(平曲・謡曲)、節(義太夫節・豊後節)、唄(長唄・小唄)、歌(琵琶歌・瞽女歌)など“伝統音楽”が、日本語を音楽として見事に開花させ、日本の文化を華やかに彩って行った。
一方、第二の源流は、一八六八年の明治文明開化に始まる。明治政府は、列強諸国と肩を並べるための国策の一つとして、西洋音楽の導入を図った。圧倒的に優れた「楽曲・音楽理論・楽器・演奏法・編成法・教育法」を学ぶ日本人たちの、その後の西洋音楽に対する崇拝に近い傾倒は言うまでもないだろう。
しかし、西洋音楽が如何に隆盛を極めようとも、日本人の心を伝える伝統音楽は消えることはなかった。平成の今日、歌舞伎・能楽・人形浄瑠璃などが、世界に類のない専用劇場で日々あらゆる年齢層の愛好家を集めているのが何よりの証拠である。日本人の心の深層に潜む、この二つの音楽の源流は、わが国の国歌を考える上で非常に重要な鍵となる。
「第一の君が代」(楽譜@)は、西洋音楽を受け入れる第二の源流の流れの中でつくられた。陸・海軍軍楽隊の前身である薩摩藩軍楽隊が企画制作し、英国人音楽教師のJ・W・フェントンが作曲した歌である。しかし、この「第一の君が代」には不満の声が多かった。海軍軍楽隊長・中村祐庸(ナカムラ・スケツネ)は、フェントン作曲「君が代」に対する批判を綴った上申書を宮内省に提出している。
「其ノ音律我ガ国民ノ詠謡スル声節ト全ク不妥送違ニシテ之ヲ吹奏スルモ、聴者ヲシテ何ノ音楽タルヲ辨知スルヲ能ハザラシメ、為ニ程々儼然タル我ガ天皇陛下ノ尊栄威ヲ表シ及ビ之ヲ崇敬スル儀礼ノ主意ヲ失シ・・・」
「第一の君が代」が不評だったのは、この曲をつくったフェントンが、通訳の歌う琵琶歌を西洋音楽の楽譜に写し取っただけのものであるからだ。楽譜を見ればわかるように、単調な上下運動を繰返すだけの幼稚で単調な旋律である。
中村の上申書に答えて、「第二の君が代」(楽譜A)が明治十三年、宮内省雅楽課によって作曲された。「第二の君が代」が現在まで歌い継がれてきた理由は、日本固有の伝統音楽に基づいた旋律を持ち、優れた音楽教師であったF・エッケルトの見事な和声処理にあると考えられている。「第一の君が代」とは違い、日本伝統音楽を重視して制作されたものであるところに注目しなければならない。
「第二の君が代」がつくられた明治十三年十月末に、海軍大臣・榎本武揚に宛てた海軍軍務局長の上申書がある。新作の「君が代」について、「先般伶人ヲシテ綿密ニ修正セシメ過日教師エッケルトヲ初メ伶人立会之上唱歌調査」をしたが「緩急其度ヲ得テ上下其節ニ適イ全ク善良無瑕ノモノ」で、改正は大成功であったと報告されている。
では、「第三の君が代」(楽譜B)は、どのようにしてつくられたのか。文部省が、音楽取調掛(東京芸大前身)に編纂を命じた『小学唱歌集(初編)』(明治十五年)に「第三の君が代」が掲載されている。「子供たちが喜んで歌い、やがて国中に広まって国歌となれば」という文部省の淡い期待が込められていたようだが、西洋の既存の旋律に日本の言葉を一音一音当てはめただけの稚拙な唱歌でしかなく、国歌として全国民的支持を得られる作品ではなかった。
さらに、明治十五年一月、文部省は「第三の君が代」とは別に新しい国歌の作成を音楽取調掛に命じた。しかし、企画は中止された。国歌に相応しい作品をつくることができなかったのである。十数年後の明治二十六年八月、文部省は儀式唱歌を制定した。その「祝日大祭日歌詞並楽譜」には、「君が代・勅語奉答・一月一日・元始祭・紀元節・神嘗祭・天長節・新嘗祭」といった曲が収められていて、その中の「君が代」は海軍省制作の「第二の君が代」であった。これは公布された八曲の中でも最上位に位置づけられて、その後すべての祝祭日で斉唱されたのである。
「第二の君が代」には、このような百年に及ぶ歴史がある。「君が代」の歴史を遡って考えると、今回の国歌法成立は、「先ず唱歌として学校などで充分に試し、そののち国歌とする」という明治初期の文部省高官の提案が百年後に結実したことを表していると言ってよいだろう。
六月十一日の記者会見で、野中官房長官は「君が代」に関する政府の統一見解を次のように示した。
「君が代は・・・日本国憲法の下では、天皇を日本国及び日本国民統合を象徴するわが国の末永い繁栄を祈念したものと理解することが適当である」
ここでも、「君が代」論議は歌詞の内容や「君」に関する見解表明に終始しているが、それに続く国歌法案審議も、ほとんどが「君」に関するものばかりで、「君が代」が「歌唱」であり、何よりも「音楽」であることについての議論は行われていない。「君が代」が、今まで“歌い継がれてきた”理由は、何よりも「君が代」が「音楽」として優れたものであるというところにある。音楽的な議論を抜きにして、どうして国歌についての審議が行えるのか。
審議の場に、国歌について音楽専門家の意見が求められた形跡はほとんどない。
七月一日の衆院内閣委員会の国旗・国歌法案質疑では、七名の衆院議員と官房長官・内閣内政審議室長・法制局長官・文部省初等中等教育局長の間で質疑、答弁が行われ、「歴史認識・象徴天皇・法制化の必要性・根拠規定・尊重規定・国民生活への影響・指導要領との関連・文案の適切性・君が代と戦争」などが論議されているが、国歌「君が代」の音楽に関することは何一つ話し合われていない(七月二日・読売新聞朝刊)。
また、地方公聴会でも、意見陳述人(二十人)は、大学教授七名、商工会議所関係者三名、公立高・中学校校長各一名、その他、教職員組合関係者・基督教団牧師・政治アナリスト・村長などで、この中にも音楽関係者の名を見ることができなかった。その論点も、教育現場の混乱回避・強制化への懸念・国への誇り・定着への疑問などで、音楽関連の意見など影も形もない(内閣委員会議事録第十二号平成十一年七月十六日)。
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「国旗国歌法」の「(国歌)第二条」には「二 君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二の通りとする」と書かれている。
「別記第二」(第二条関係)には「古歌。林広守作曲」と表記された五線譜が添えられ、五線譜には歌詞と旋律が書かれ、旋律はメロディのみを記した一段譜である。
私は「楽曲」という言葉が使われていることに大いに違和感を覚えている。ここに音楽の視点を欠いた国歌議論がそのまま反映されているように感じられるからである。音楽関係者は、メロディのみ一段譜に書かれた楽譜を、決して「楽曲」とはいわない。「楽曲」とは「音楽の曲。声楽曲・器楽曲・室内楽曲・管弦楽曲などの総称」(『広辞苑』岩波書店)であり、一定以上の編成を有するものと解釈されている。
確かに、辞書によっては「音楽のふし」(『字通』平凡社)と解釈するものもある。『唐書、礼楽志十一』の中には「楽曲遂に備わる」とあり、雅楽用語では「音楽のふし」を「楽曲」と言う。法律の「楽曲」という言葉は、作曲者あるいは選定委員が「君が代」の楽譜に書き記したものをそのまま踏襲したと考えられる。
しかし、別記第二の添付譜は「雅楽譜」ではなく「五線譜」である。五線譜で表記するからには、「楽曲」ではなく、西洋音楽用語で「旋律」とすべきではなかったのか。「旋律」とは「まとまった、ある音楽的表現をもっている単音の流れ」(『音楽辞典』音楽之友社)のことであるから、まさに「別記第二」にある楽譜を示すことになる。
「君が代」の楽譜を諸外国に公式配付するとき、「歌詞及び楽曲」という言葉をどう訳すのだろう。「歌詞」は「text」とすればいいが、「楽曲」を単に「melody」とは訳せない。「melody」を日本語にすると「旋律」になってしまうからだ。明治二十一年の海軍省公式配付楽譜「君が代」の表紙には「nach einer altjapanischer Melodie」とドイツ語で書かれているが、その英訳、あるいは「based on an ancient Japanese melody」などと表記すると、「text」とのバランスを欠いたものになる。
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七月十六日、衆院内閣委員会で参考人質疑が行われ、初めて音楽関係者が参考人として出席した。民主党推薦の作曲家中田喜直氏である。
「国歌のような日本を代表する一番大切な歌が、歌詞とメロディーが合っていないということは、これは重大問題なんですね。・・・《君が代》と歌わなきゃいけないのに、《きみがよーわ》、それから・・・《いわおとなーりて、こけのむすうまーああで》・・・。メロディーというのは抽象的なもので、メロディーには意味がないんです。・・・このすばらしいメロディーにすばらしい詞をつけて皆さんが納得するような国歌ができたら非常にいいと考えております」
更に中田氏は、政府委員の質問に答えて、「一番正しい日本語で、その日本語を言ったときに《君が代》とわかればいいんだけれども、《きみがあよーわ》、あなたの用は何だというふうになっちゃうわけですよね。・・・それで、結婚でも、結婚は一回するのは当然かもしれないけれども、やはり二回目はとてもうまくいくと言うことがありますよね。だから、メロディーにもっといい歌詞をつければ、みんなが納得するすばらしい国歌になる可能性がある・・・」(内閣委員会議事録第十二号 平成十一年七月十六日)と言っている。
「メロディと歌詞のアクセントは合っていなければいけない」という主張は、中田氏が以前から新聞・雑誌等で繰返し主張していることである。
同氏は「君が代」の他にも、『赤とんぼ』(三木露風作詞。山田耕筰作曲)の「ゆうやーけこやけーのアカとんぼ」の「アカ」のアクセント、『螢の光』(稲垣千頴作詞。スコットランド民謡)の「ホタールのひかーり」の「ホタル」のアクセントが旋律と相違していることを指摘している。これには、国民栄誉賞を受けた歌手の故藤山一郎氏も同じ意見だったようで、大晦日のNHK紅白歌合戦で最後に『螢の光』を歌うときも、指揮をしながら、最初の出だしである「ホタル」の部分は決して歌わなかったと言われている。この論議は、一見正鵠を得ているかのように見えるが、事は簡単ではない。
日本語は極めて少ない音韻と単純な構造で成立している言語である。例えば、日本語の「マー(間・摩・魔・真・馬・麻など)には一種類の音韻しかない。しかし、中国語の「マー」には上下行、平行、下上行などの多彩な音韻があり、疑問・肯定を表したり、「母親・擦る・数字・馬・麻」などを表現している。また、英語は「acknouledge」や「suspiciousness」などのように構造が複雑であるが、日本語は「Ki・Mi・Ga・Yo」のように、すべてが母音で終わる単純な構造でできている。
日本人は、昔からそのような日本語固有の表現力を大切にして音楽(歌)を作ってきた。近世に至るまでの日本伝統音楽のほとんどが声楽曲であり、純器楽曲が発達しなかったのも、美しい音の響きを積み重ねて音楽構造の柱とする「和音」を持つことがなかったのも、すべて日本語の音韻と構造に起因すると考えられる。
中田氏のいう「アクセントと旋律に齟齬のある歌」の実例をあげてみよう(楽譜4)。歌詞を追いながら、旋律とアクセントをそれぞれ別々に口ずさめば、日本語を正しいアクセントで歌うことにこだわることが、いかに空しいものかわかるだろう。
『唱歌』の例
『童謡・愛唱歌』の例
『民謡』の例
さらにこだわれば、日本語発音の問題はアクセントだけではない。長短の問題もある。
例えば、『夏の思いで』(江間章子作詞・中田喜直作曲)の「夏が来れば」の「来れば」は、「クレバ」であって「クーレバ」ではない。また、『雪の降る町を』(内村直也作詞 中田喜直作曲)の「雪」は、「ユキ」であって、この歌のように「ユーキ」とすると勇気・有機・有期・結城・誘起という全く違う意味になる。日本全国各地の訛りを考えれば、「正しい日本語のアクセントで作曲をしなければいけない」という中田氏らの提案が空理空論でしかないのが分かるだろう。
確かに、中田氏らの意見は日本語の重要性を説くという点では大いに傾聴に値する。しかし、「日本語のイントネーションを大切にしよう」という単純な“合い言葉”は歌を歌うときには何の役にも立たない。アクセントにこだわりすぎれば、現在我々が歌っている日本の名歌はほとんど消えることになる。
次に、衆院内閣委員会の参考人質疑でも引用されていた、「(君が代において)問題は歌詞。・・・思想の問題というより、『芸術歌曲』として拙劣です」(朝日新聞九九年四月八日)という中田氏の発言について考えたい。
果たして、国歌は「芸術歌曲」なのだろうか。十九〜二十世紀にかけて近代国家成立にともなって、多くの国歌がつくられた。緊迫する国際情勢の中で、自国の生き残りをかけるために、国民の意識を統一する必要があったのである。
同じ頃、「民族音楽」という概念が生まれたので、国歌制作と民族音楽は同じ愛国運動として語られることがある。しかし、民族音楽の旗手と言われた作曲家が作った国歌など一つも存在していない。
著名な作曲家がつくった国歌も、「ハイドン作曲のドイツ連邦共和国国歌」「グノ−作曲のバチカン市国国歌」の二つしかなく、しかも、二曲とも国歌として制作されたものではない。国歌は一般民衆の間で自然発生したものが多く「芸術」などではないのである。
衆院内閣委員会参考人質疑という国家大事の場所で行われた唯一の音楽論議が、このように曖昧かつ拙劣な議論でしかなかったのは非常に残念だ。
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その他にも的外れな意見がいくつか目についたので述べておきたい。
まず、永六輔氏の発言である。「《日の丸・君が代》大研究」(『論座』朝日新聞社平成十一年三月号)でのマルセ太郎氏との対談を見てみよう。
「永(永六輔氏)・・・君が代のメロディは中国から朝鮮を経由して入ってきた雅楽です。それに君が代の五七五七七をむりやり、はめ込んだ。だから《きみがよは》とは歌っていませんね。《きイみイがアア》と全部、母音で伸ばしている。あれは日本語じゃないですよ・・・。
マルセ(マルセ太郎氏) 君が代の歌詞について永さんはどう考えているんですか。
永 君が代の『君』が天皇を示そうが『あなた』を意味しようが、そんなに重要な問題ではないと思います。問題は、聞く人にわかるように歌えないということです。君が代は日本語がそうとう達者な外国人でも、聞き取れないと思いますよ。母音で伸ばすのはパンソリ、朝鮮半島の歌い方なんです」
母音を伸ばしながら歌うのはパンソリだけではない。世界的にヒットした「上をむいて歩こう」(永六輔作詩 中村八大作曲)では、「うえをむウーいて、あるこオーー」と母音を伸ばして歌っているが、れっきとした中村八大作曲の日本の歌である。「サンタルチア」も「サンタールーチーア」(楽譜5)と歌うが、イタリア民謡(コットウラ作曲のカンツオーネ・ナポリターナ)である。
クラシック音楽の中にも、ベートーベン作曲「第九交響曲ニ短調《合唱付》」のようなバリトン・ソロ(楽譜6)があり、モーツァルト作曲「モテト(Exsulate,jubilate)K165」では、四十小節以上にわたって「はアーーーーーーーーー(れるや)」と歌われている。母音だけを使って歌う母音唱法(vocalize)は、メリスマ様式とも言われて、グレゴリオ聖歌や中世ルネサンスにも見られるが、芸術歌曲だけではなく、世界各地の民謡や伝統歌謡にもたくさんある。
例えば「唄入り観音経」という浪花節を見てみよう(楽譜7)。
冒頭で三門博の渋い声が「遠くちイーーーーーーーらアーちら明かりがゆれるウーーーーーー」と起伏する。目を閉じると、暗くなった対岸に人家の灯火がチラチラと瞬く情景、流れて止むことのない静かな川音、そして、黄昏の残照を映す夕空などの光景が浮かんでくる。彼の唄は、音、情景、人物の心理描写までも見事に表現しているのである。後半の「雁が鳴く」という所(楽譜8)はまるでバイオリン協奏曲のカデンツアのように微細な動きが続いている。
伝統歌謡は、言葉の内在的なエネルギーが音楽になったものである。日本語は母音が多いために、特にメリスマ歌唱法が要請されるのである。ピンポン玉のように機械的に弾む西洋オタマジャクシの上に日本語のカタカナを一つ一つ当てはめても、蝿一匹出てきはしないのだ。したがって、英氏がいうような「母音で伸ばすのはパンソリ。朝鮮半島の歌い方」であるというのは当然正しい認識ではないのである。
「君が代」をめぐる様々な意見の中で目立ったのが、既成の歌を国歌にしようという提案であった。提案された曲は「さくらさくら」「故郷」「花」「上を向いて歩こう」などが多かった。
日本人なら誰でも知っている名曲だが、単なる愛唱歌を国歌とすることはできない。国歌とは、我々はじめ子々孫々の生命と財産を守る国家の“祈りの歌”であるからだ。国歌が校歌、社歌、応援歌などと決定的に違う点はそこにある。さらに言えば、国歌は“祈りの歌”であるために高い理念と理想を必要とする。花が咲いたから見に行ったり、忘れがたい故郷を懐かしんだりする愛唱歌が国歌にふさわしいと言えるだろうか。諸外国では次の三つの意味をもつ国歌が多い。
どの国歌も、「自国への愛・神への祈願・国民の勇気の鼓舞」を歌い、「浄められた・貴い」「美しい国土・島・母なる国」の永続性を祈り、自国の歴史を伝えている。それはなぜか。己の生存を懸けた歌であるからだ。
既成の歌を国歌にしようとする提案の中で「上を向いて歩こう」をあげる人が一番多かったが、社民党衆議院議員辻本清美氏も、この曲を提案している(『SAPIO』小学館 平成十一年五月十二日号)。その提案理由は「旗と歌は別。歌は法制化には馴染まない。慣習でみんなが好いている歌、という方が馴染むのではないか。二つとも外国では有名」だからだと言う。
「上を向いて歩こう」は、日本音楽著作権協会によれば、単一歌曲としての外国著作権料所得は最高額で、確かに世界で最も知られている日本の歌と言ってよいだろう。
しかし、この曲はアメリカで「スキヤキ」として知られているが、その他にも「FOLK JI 88」というタイトルで歌われている。イギリスでは「Eyes of Love」、フランスでは「Sous une pluie d'etoiles」、タイや中国などでも、それぞれ違ったタイトルのラブソングとして広く歌われている。異なる歌詞とともにその国ごとにさまざまなイメージがつくられているはずである。
一九九四年に「4P.M.」というボーカルグループによってリバイバルされた「スキヤキ」の歌詞は、「俺が憂鬱なのは、みんなお前の所為だ。ア!ベイビー!お前は俺からお前の愛を持って行ってしまった」という内容になっている。辻本氏の提案するように「上を向いて歩こう」が、もし日本国歌となり、世界平和や人権の理想を謳う新しい歌詞がつけられたとしよう。しかし、どんな歌詞がつくられたところで、外国では「ア!ベイビー!」という歌なのだ。正鵠を失した的外れの国歌案「ここに極まれり」といったところである。
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「君が代」の音楽論議は、実は今回が初めてではない。以前から、次の二点の「君が代」批判があった。
《小節数に関する音楽論》
「君が代」は十一小節で作られた世界中で一番短い国歌である。ところが、本来、音楽は四小節を単位として作られるべきものであるから、十一小節しかない「君が代」は「非音楽的」だという幼稚な西洋音楽理論を振りかざす意見があった。四小節単位でつくられていない音楽作品は無数にあり、実例をあげるときりがない。世界で最も伝統ある国歌といわれている英国国歌が十四小節であることを指摘するに止めておこう。
《和音に関する音楽論》
「君が代伴奏譜」には、初めの二小節と終わりの一小節半に和音がなく、歌と同じ旋律をユニゾン(同音)で演奏している。そのため、以前から「非音楽的だ」「恥辱的な国歌だ」と異義を唱える音楽家が多かった。中には、日本式和声を付けるべきだとして不思議な和音の自作譜を発表する者もいた。「君が代伴奏譜」がなぜ同音で書かれたか。元宮内省雅楽部長の阿部季功氏によると、編曲者エッケルトが「ここに複雑な音を入れることは、声は和しても何となく面白くない。日本の国体にあわぬような気がする。それゆえキミガヨにはわざと和声をつけぬことにした。最初につけぬから結びにもつけぬ方がよろしい」と意図的に和音を入れなかったのだと言う。
例えば、「乙女の祈り」(バダルチェフスカ作曲)「フィガロの結婚・序曲」(モーツァルト作曲)「交響曲第五番ハ短調《運命》」(ベートーベン作曲)「軍隊行進曲」(シューベルト作曲)など(楽譜9〜12)、「ユニゾン(同音)の小節を持つ曲」は他にもたくさんある。これらの有名な曲を見れば、和音のない楽曲が決して「非音楽的」ではないことが分かるだろう。曲の一、二小節に和音がない国歌を「恥辱的だ」とする発言には音楽的根拠がまったくないのである。
このような「君が代」の音楽的批判の背景には、明治から昭和の初めにかけて、知識人たちの間に蔓延していた盲信的な西洋崇拝思想がある。最近では、このような「西洋カブレ」はあまり見かけなくなったが、相変わらず、能や文楽や歌舞伎より、シンフォニーやオペラの方が遥かに優れたものだと考える頑迷な思考の持ち主が消えたわけではない。
西洋音楽と日本伝統音楽をシステムの完成度で比較したとき、優劣は明らかである。西洋では「音」を「理論」としたが、日本では「音」を「感性」でしかとらえていないからだ。したがって、「作品・音楽理論・楽器・演奏法・編成法・教育法」のどれをとっても見事に組織されている西洋音楽と、個人的な体験を積み重ねて、それを口移ししている日本伝統音楽の間には、歴然とした差がある。しかし、我々が想起しなければならないのは、そのシステムの優劣を計るのではなく、「芸術性」という尺度で、その「美」を計ることではないだろうか。シンフォニーホールでの感動と、能楽堂や文楽座での感動は「芸術的感動」を尺度にして計るべきもので、「音楽システム」の優劣で論じられるものではない。同様に、国歌を「音楽システム」で考えることは愚行以外のなにものでもないだろう。
明治時代以降も君が代の和音に関して異義が唱えられ、明治三十八年および大正六年に制作された数曲の「君が代伴奏譜」がある。その伴奏譜からは、“和”でも“洋”でもない奇妙な「君が代」が聞こえてくる(前述したホームページで展示中)。
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国旗・国歌法の施行後、野中官房長官は国歌に関連して「斉唱、吹奏を行って定着していくようにする」との考えを示した。しかし、「吹奏」するには演奏譜が必要である。メロディのみの一段譜で、一体どのように吹奏しろと言うのだろうか。
明治以降につくられた「君が代演奏譜」には、我々が普段目にする「ピアノ譜」のほかに、簡単な「二部合唱譜」、初等練習曲のような「ピアノ伴奏譜」、バロック風に凝った「編曲譜」など、多種多様な楽譜がある。さらに、公式の場で「君が代」を演奏するエッケルト原譜を元にした音楽隊の楽譜を数えると、その数は十数種類以上に及ぶと考えられる。
その音楽隊譜とは別に、明治二十六年、文部省が「祝日大祭日唱歌」を告示したときに新しく発表したピアノ演奏譜がある。それが我々がふだん耳にしているものである。学校行事などで一般に広く使われたため、現在のオーケストラ譜や市販譜は、この文部省譜を元にしたものが多い。問題は、エッケルト原譜と文部省譜に四か所の相違があることである。君が代は十一小節の短い曲だから、平均して三小節に一つ違いがあることになる。その後、両者の折衷案が作成され、「君が代演奏譜」は多数混在したまま今日に至っているのである。
国歌法は制定されたが、演奏譜まで制定されたわけではない。慣習として使用されている文部省譜には、論議すべき点も正すべき点もある。法制化された今こそ日本のすべての音楽関係者が一堂に会して、儀式用に演奏する「君が代演奏譜」決定版の作成について話し合うべきではないだろうか。
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現在の「君が代演奏譜」は「伴奏譜」ではないという意見がある。確かに、今の「君が代演奏譜」は、オーケストラ譜や吹奏楽譜の上に四部合唱譜を乗せたものに過ぎないから、「声」と「音」は和するもの、両者を高め合う高揚性に欠けている。現在の編曲技術をもってすれば、「重厚な和音をもつ君が代」や「軽快なリズムをもつ君が代」演奏譜の制作が可能である。
外国の例を見てみると、魅力ある国歌を自作の中で使用(編曲)した作曲家は多い。
例えば、シューマン、ワグナー、リスト、チャイコフスキー、メンデルスゾーン、ドビュッシーなどは、フランス国歌の旋律を自作で使っている。英国国歌もヘンデル、ベートーベン、パガニーニ、ウェーバーたちが作品の中で使用している。彼らはその国歌に魅力を感じていたからであろう。もしそうでなければ彼らは見向きもしなかったに違いない。
八月十一日、ロック歌手・忌野清志郎氏のCDアルバムにパンク風に編曲された「君が代」が収録されているという理由で、所属レコードが発売を禁止した。その話題を特集したラジオ番組(文化放送八月十九日 梶原しげるの本気でDONDON)から、コメンテイターとして電話出演を依頼された。出番を待っている間ラジオに耳を傾けていると、忌野氏のコンサートで実際に「君が代」を聞いた人や右翼の党首などが発言していたが、結局、ファックスによる賛否の数は、「賛成七十七」「反対二十四」「賛否不明十一」で、圧倒的に忌野支持が多かった。
あまり知られていないことだが、有名な「君が代」行進曲以外にもいろいろな「君が代」編曲作品がある。例えば、日本音楽著作権協会には三曲の編曲作品の著作権が設定されている。矢野顕子「君が代」、坂本一郎「君が代」、ウオン・ウイン・ツアン「さとわの夢-君が代」である。筆者も昔「君が代」を編曲したことがある。劇団青年座公演(一九六九年六月国立小劇場)の『盟三五大切』(鶴屋南北作)の終幕で、演出家の要望から難解な現代音楽風に「君が代」を伴奏した。三十年も前のことだが、不協和音の中で十分に存在感を示していた「君が代」の旋律に不思議な魅力を感じたのを覚えている。「君が代」は音楽的にも魅力ある素材であるから、ロックにも現代音楽にもなるのである。
もし自由に表現された様々な「君が代」演奏譜があって、その「君が代」を、「儀式」としてではなく、「愛国歌」として歌うことができるとしたら、貴方はどんな曲で歌いたいか。そんな質問を多くの人に発してみたい。例えば、あらゆるジャンルの日本の音楽家が参加して、新伴奏譜を競い合うコンサートを開くことができないだろうか。もし一夕実現すれば、「君が代」に対する人々の関心は大いに高まり、「君が代」は立派に校門の外に出ることになる。そして、平成を生きる人々に日本百年の音楽発展を実感させ、新しい日本の国風文化を築く第三の潮流を予感させる、意義ある歴史的な会になるのではないだろうか。
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(楽譜1)「第一の君が代」(J.W.フェントン作曲)
(楽譜2)「第二の君が代」(林広守作曲。F.エッケルト和声編曲)
(楽譜3)「第三の君が代」(作曲)英国古代の大家ウエブの古歌
(作詞)古歌(第二節/源三位頼政)並びに稲垣千頴の改作
(楽譜4)
1「蝶々」(稲垣千頴作詩・スペイン民謡明治十五年 『小学唱歌集初編』)
2「鉄道唱歌」(大和田建樹作詩・多梅稚作曲明治三十三年『地理教育鉄道唱歌』)
3「花」(武島羽衣作詩・滝廉太郎作曲 明治三十三年『四季』)
4「春の小川」(高野辰之作詩・岡野貞一作曲 大正元年)
5「朧月夜」(高野辰之作詩・岡野貞一作曲 大正三年)
6「あの町この町」(野口雨情作詩・中山晋平作曲 大正十四年)
7「かあさんの歌」(窪田聡作詩・作曲)
8「この道」(北原白秋作詩・山田耕筰作曲 大正十五年)
9「会津磐梯山」(福島県民謡)
10「草津節」(群馬県民謡)
11「金比羅船船」(香川県民謡)
(楽譜5,6)
「サンタ ルチア」(イタリア民謡)
「第九交響曲ニ短調《合唱付》ベートーベン作曲
(楽譜7,8)
「唄入り観音経(1)」(畑喜代司・作/内藤孝敏・採譜)
「唄入り観音経(2)」(畑喜代司・作/内藤孝敏・採譜)
「乙女の祈り」(バダルチェフスカ作曲)
「フィガロの結婚・序曲」(モーツァルト作曲)
「交響曲第五番ハ短調《運命》」(ベートーベン作曲)
「軍隊行進曲」(シューベルト作曲)