国を象徴するのは国旗・国歌ばかりではない。国花や国鳥を決めている国もある。
英国の国花・国鳥は「バラと駒鳥」、オーストリアは「エーデルワイスと燕」、インドは「蓮と孔雀」だそうだが、それを聞いて、訪れた国の美しい風景や事物を懐かしく思い出す人もいるだろう。国の象徴にはそういう観光的効用があり、国旗・国歌も国際社会における平和・友好のシンボルの一つでもある。
我家の犬は、近隣の犬の声に応えてよく遠吠えをする。パトカーや救急車、石焼芋の売声にまで反応するのは御愛嬌だが、月夜の晩など、狼のようにノドを高く上げ、前足を突っ張って陶然と連帯の歌をうたっている。
二十世紀中期以前、英国国歌の旋律を借用していた国が数多くあった。カナダ、オーストラリア、ニュージーランドその他の英連邦構成国は当然としても、ロシア、デンマーク、スイス、スエーデン、スペインやドイツの連邦諸国をはじめ、王を崇める必要のないアメリカまでが英国国歌を使用していたのである。まるで、先進国仲間のクラブ・ソング、列強諸国の月夜の遠吠えではないか。
無論、二十世紀末の今日、リヒテンシュタイン公国(現在も英国国歌の旋律を使用)以外のすべての国が固有の国歌を持ち、国家公式行事や国際スポーツ大会などで国民の連帯感を大いに盛り上げている。しかし、国歌の効用は国内だけにとどまらない。多数の同族が陶酔しつつ声を和すとき、異様なまでに気分が高揚するから、明確な相手に国民の意識を向けさせることで、国歌は簡単に排他的な歌に変貌する。
数年前、海外のサッカー場で聞いた国歌斉唱を思い出す。決勝戦の会場一杯に響いた異国の歌声は、まるで原始人の動物的な叫び声にも聞こえて、異邦人の私には不快な圧迫感があった。すべての国が国歌を持っているということは、攻守両面の効用を密かに装備した文化的武器を持ったということになる。
君主制への反逆、外敵との闘争、革命などによって成立した国歌を持つ国はフランスやアメリカだけではない。それらの国では、国家成立時の国民意識をそのままに「圧政の血に染む旗」「武器を取れ」「隊伍を組め」「死、爆弾、奴隷」という歌詞を改訂せず今でも使っている。国歌が非常時における闘争心発揚という大目的を隠し持っている何よりの証拠といってよいだろう。
私が前大戦の小学校時代に声を張り上げて歌っていた愛国民歌も、反対側に立てば不当な圧政の歌に聞こえていたに違いない。近い将来、若い世代向きの新愛国民歌を企画するとき、留意しなければならないのはこの点である。如何に平和祈願の言葉をちりばめようと、国外の人たちには歌詞は理解されず、リズム横溢した意気軒昂の旋律であればあるほど排他的な狼の歌に変わるのだ。「君が代」の音楽に対して、「リズム不足で気分が高揚しない」という反対論が多いが、まさにそこにこそ「君が代」の素晴らしさがあると私は考えている。
「国歌・君が代」が、千年前と同じ素朴な祝意を日本列島各地に撒きつつ、子々孫々、末永く、平和・友好のシンボルとして世界に向けて歌い続けられることを祈る。
国旗・国歌法案の衆議院本会議審議入りが伝えられる
一九九九年六月二十九日
東京・経堂にて 内藤孝敏