「ドデカフォニ」
内藤孝敏(作・編曲家)
『月刊文藝春秋・巻頭随筆』掲載(一九八五年五月号)
『聖徳太子の声(文春文庫・巻頭随筆5)』収録(一九九四年二月)
〈三文オペラ〉乞食芝居・3幕15場/新歌舞伎座/TES自由改作/演出・土方与志/レビュー新劇スター集団的公演/千田是也・友田恭助・田村秋子・丸山定夫・細川ちか子・中村翫右衞門・長岡輝子・森雅之・滝沢修・東山千栄子・榎本健一/2円50銭・1円50銭・70銭
これは一九三二年(昭和七年)の〈三文オペラ〉東京公演のポスター抜粋である。各界のスターがまさに綺羅星のごとく並ぶ豪華キャスト。殆どが故人なので無論例えばの話だが、今この配役で上演するとしたら、担当プロデューサーはポスタ−や看板の並び順、楽屋の割り振りで悩み、そのうえ膨大な出演料を考えて夜もおちおち眠れないだろう。
B・ブレヒト作/K・ヴァイル作曲〈三文オペラ〉は一九二八年八月、ベルリンのシッフバウアーダム劇場の柿(こけら)落としで上演された。舞台稽古を見た批評家たちは「こんなゲテ物は初日を開けずに葬るべきだ……オペラでもないオペレッタでもなく、寄席芝居にすらなっていない……陳腐なジャズのゴッタ煮である……」等々否定的な意見が圧倒的で、更に出演者のトラブルも絶えず、関係者は暗澹たる思いだったという。
ところが初日の幕が開き芝居が進行し、第二場の〈大砲の歌〉にさしかかるや観客が拍手と賞賛の叫び声で反応しはじめる。やがて終幕となった舞台は割れんばかりのどよめきに包まれ、見込み違いの大成功にスタッフもキャストも昂揚した気持ちを押さえきれず終演後の舞台上で抱擁を繰り返し、楽屋口を取り囲む観客達はいつまでも立ち去らず、劇場周辺は深夜まで異様な空気に包まれたという。
この公演は同劇場一年有余のロングランとなり、その画期的成功の反響はドイツ中にひろがって各地で上演、波紋はさらに国境をこえてワルシャワ・ソフィア・ロ−マ・パリ・モスクワ.ヘルシンキ・リオデジャネイロ・東京にまで及び、ニューヨーク公演では当時すでに人気絶頂のルイ・アームストロングが出演して、〈三文オペラ〉は第一次大戦後のオペラ史上、〈ヴォツェック〉以来の最大の出来事となる。
ところで、先年、ある音楽雑誌よりヴァイル特集の原稿依頼を受けたので、あらためてその楽譜の眺めているうちに、音楽監督として立ち会った数十回の公演中には全く気付かなかった隠し絵のようなものが幾つか見えてきて興味を覚え、いろいろ分析を試みてみた。
その中から〈序曲〉について簡単に記してみたい。
まず、最初の八小節間の〈低音〉だけを書き抜くと(C・D・C・Bb・A・G・F#・F・F#・B・A・Ab・Db・D・Eb・E)となる。一見複雑に見えるが、重複している四つの音を省いて並べ換えると(C・Db・D・Eb・E・F・F#・G・Ab・A・Bb・B)となって、ピアノの鍵盤でいえば白鍵七黒鍵五の十二の半音が全て使われている。これは稚拙だが十二音音楽の「音列」というものである。
全ての音を平等に扱うため「十二の半音をある音列によって一回だけ用い、それが一巡するまで同じ音を繰り返すことができない」という原則の上に作られた十二音音楽技法(ドデカフォニィ)がシェーンベルグによって完成されたのは一九二四年。調性を否定するためのこの技法は、第一次大戦後の混乱の中で新しい規範を模索していた多くの作曲家によって支持され、二十世紀における最も重要な作曲技法となるのだが、ヴァイルがこの最新の作曲法を意識して〈序曲〉を書き始めたことは明らかだろう。厳格な書法に従っていないので「ドデカフォ似」とでもいった方がよいかもしれないが、低音に現代音楽を忍ばせることで音楽を、そして芝居を極めて辛口なものにしているのだ。
一方、〈序曲〉の〈高音〉の方だが、冒頭、まるで自棄(やけ)になったようにオ−ケストラ全員が弾く二小節の音型があって、さまざまに変化しながら繰り返されている。その和音構成音を調べてみると(F・G・Ab・A・Bb・C・D・Eb・E)という九つの音しか使われていないことが分かった。この音列はF調・長音階の七つの音(F・G・A・Bb・C・D・E)に、音階外のAb・Ebという音が含まれている。この二つの音はブルースを特徴づけているブルー・ノートという音である。
十九世紀半ばアメリカで誕生したブルースは、二十世紀に入り、〈セントルイス・ブルース〉のような数々のヒット・ソングと共にジャズの基盤の一部となった。ドデカフォニィ完成と同じ一九二四年には、ガーシュインがピアノとオーケストラのための〈ラプソディ・イン・ブルー〉をニューヨークで初演し、ヨーロッパのクラシックの作曲家達も競ってジャズの手法による作品を書いている。
ヴァイルが「泥棒と乞食と娼婦」のために、抑圧された民族の嘆き節から発した最も耳新しい音楽を取り入れたのは、歴史的必然であったといえるだろう。
「左手にドデカフォニィ」「右手にジャズ」というこの異端の序曲には尤もらしくマエストーゾ(荘厳に)という発想記号が付けられている。しかし、ニューオリンズ・ジャズ・スタイルの三文オーケストラが熱演すればするほど序曲は荘厳さから遠ざかり、そして難解で不細工な音楽はいつか「変り玉」のように懐かしい響きになって行くのだが、その秘密は、この二重構造から来るように思われる。〈三文オペラ〉は「ジャズのゴッタ煮」ではなく「ジャズのドデカフォ煮」だったのである。
(追記)
このエッセイからラジオの一時間番組が制作された。(1988年1月17日。TBSより放送)
「TBSラジオ図書館」
〈クルト・ヴァイル「三文オペラの秘密」〉
『ローリング・トゥエンティーズの大いなる遺産』
(作・構成)内藤孝敏
(出演)千田是也・野口久光・藤田由之・松平頼暁・秋満義孝・滝弘太郎・内藤孝敏
(制作・演出)小山雄二(TBS)